2018年1月29日月曜日

心か?面か?

その人の心と顔つきと、どちらが良いかという話ではありません。


建築文化の世界では、これは大命題です。


日本の家は古来、曲がったままの梁を使ってきました。それを組み立てるのには、組んだ後に表面と表面の間の寸法を測って、ちょうど合うように寸法を刻まなければなりません。



そこに法隆寺の伽藍のように、一定間隔に柱を立てた論理的な建築が輸入されます。決まった寸法の材を、別の場所で刻むのには、通り芯を使って部材を定めるのが最新技術です。このようにして、通り芯という建築技術が持ち込まれました。




ところが、現代でも西欧諸国では、図面を見ている限り、通り芯の概念はありません。外面の寸法が定められます。芯で考える方が、合理的で進化していると思うのですが、どうやらそうともいい切れません。


さらに、部材の合理化が進み、大量生産される合板などの面材の寸法が規格化されると、合理性の話しが逆転します。


柱の芯で寸法を取ると、隅部では半端な面材を作って張らなければなりません。外面で合わせれば、その必要もなくなります。床を張るのも同じことです。


数十年前の合板が使われていなかった時代には、必要がなかったことです。つまり、合理化が進むことが、合理的ではなくなりました。


元来、建物のスケルトンを、柱で考えるか壁で考えるかの違いが、心と面の違いの始まりです。そして柱で考える難しさに気付かされます。


もし、間面記法のつくりで外側に庇部の面を作るのが、ここまで考えられていた工夫の1つだとすれば、古人の思慮と伝統には、心底敬服するばかりです。