2017年11月13日月曜日

「家は肉体の仮の宿」

標題のことばを、思想家岡倉天心は『茶の本』の中で書いています。このことばは、とても解釈に苦しむことばです。


いずれ生まれ変わって来生に生きる、この世は仮の生なのですから、住んでいるような場所は草を結んだような簡単なものでよく、自分が死んだら、草を解(ほど)いて元の平原に戻せば良い。環境のことを考えても、これはこれで否定できません。このことばが、日本人の住宅感の奥底に根付いているような気もします。






一方、欧米では家は資産そのものですから、基本的には受け継ぐべきものです。新築と同様に既存住宅にも価値があると考えます。そして経済成長とともに、その価値は上がる一方です。


ですから、欧米では住宅ローンは5~6%ほどが一般的です。逆に仮の宿として資産価値が失われる日本であれば、本来は半分の2~3%でも高いと考えなければいけないのかもしれません。


ところが現代では、仮の宿とは思えない高断熱高気密の、技術を凝らした家が求められています。「仮の宿」であれば、生きてる間の数十年の辛抱で良いはずなのですが。


そのように考えると、生活面では「仮の宿」を否定して、金利では「肯定」するというワガママができる時代であるといえます。しかも、これまでの建てられたのが「仮の宿」なら、壊すしかないといえます。


こんな時代に、理屈抜きに魅力を放つ家を安い金利を最大限に使って家を得ることができたら得をしそうな気がします。


ただし、理屈抜きに魅力的とは、自分以外の人が喜んで住みたくなるような家です。それには、じつは間取りの変化などを含めて、対応力のあることが大事です。


さて、日本の伝統の「仮の宿」の思想は、どちらに帰着するのでしょうか。