東洋的なものの考え方と、西洋的なものの考え方は、さまざまなところで比較されることが多いものです。生活習慣の中にもいろいろありますし、生き方にも関わっています。そして、とかく対照的に表現されますが、決して正否を明らかにすることでもありません。
こうした比較の行き着くところは、宗教観になります。日本人には八百万の神がいて、西洋人には一神があります。なかなか互いに汲み入れない神の存在ですが、その影響力はどうしても現れてきます。
その1つの例として、日本人の信仰の場である神社と、西洋人の信仰の場である教会を、建築や都市工学的に考えてみると面白いことが見えてきます。
建物の形状や規模はもちろん大きく異なります。どこにもかしこにも作られる祠を含めれば、日本の神社の方が小さなものです。それ以上に、この2つの信仰のための建築物を分けているのは立地ではないでしょうか。
教会というのは、街の中、そして中心部に建てられているものです。人が集まり集落を形成するのには、まず最初に互いの共通の神を確認し、神の居場所を定めてから、その周辺に住み着くことになります。
一方、神社の多くは、人の生活圏と自然との境界上に建てられます。ここから先に、ある神様が奉られているという証の建物です。中には門前町を形成するような大きな社寺もありますが、圧倒的に多いのは前者です。中心を向くのではなく、環境の変わる際や縁に神が宿っていると感じているのでしょう。
逆に同じ東洋でもアンコールワットは教会的です。そのように考えると、巷にある神社は最も日本的な宗教観を表しているのかもしれません。
こうした比較の行き着くところは、宗教観になります。日本人には八百万の神がいて、西洋人には一神があります。なかなか互いに汲み入れない神の存在ですが、その影響力はどうしても現れてきます。
その1つの例として、日本人の信仰の場である神社と、西洋人の信仰の場である教会を、建築や都市工学的に考えてみると面白いことが見えてきます。
建物の形状や規模はもちろん大きく異なります。どこにもかしこにも作られる祠を含めれば、日本の神社の方が小さなものです。それ以上に、この2つの信仰のための建築物を分けているのは立地ではないでしょうか。
教会というのは、街の中、そして中心部に建てられているものです。人が集まり集落を形成するのには、まず最初に互いの共通の神を確認し、神の居場所を定めてから、その周辺に住み着くことになります。
一方、神社の多くは、人の生活圏と自然との境界上に建てられます。ここから先に、ある神様が奉られているという証の建物です。中には門前町を形成するような大きな社寺もありますが、圧倒的に多いのは前者です。中心を向くのではなく、環境の変わる際や縁に神が宿っていると感じているのでしょう。
逆に同じ東洋でもアンコールワットは教会的です。そのように考えると、巷にある神社は最も日本的な宗教観を表しているのかもしれません。